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「ここは、歴史の皿鉢料理やね」~堀田さんと巡る芸西村文化資料館~

芸西村の歴史や暮らしを今に伝える「芸西村文化資料館」。
坂本龍馬の妻・おりょうさんにまつわる資料、昔の農業や漁業で使われていた道具、昭和の暮らしを感じさせる品々など、実にさまざまな展示物が並んでいます。文化資料館の堀田さんと一緒に、館内をじっくり巡ります。

「見るもん見るもんが、面白い」

「ここもね、本当に、すごい盛りだくさんでね」そう話す堀田さんと一緒に館内を歩いてみると、一見何に使うのか分からない道具にも、古い新聞記事にも、それぞれ芸西村につながる物語が隠されていることに気づきます。堀田さんの説明を聞くと、とたんに展示物たちが魅力的に輝きだすように感じました。

芸西村と「おりょうさん」の物語

最初に案内していただいたのは、坂本龍馬の妻として知られる「おりょうさん」にまつわる展示です。

おりょうさんが、芸西村で暮らしていた!?

堀田さん:そうなんです。
龍馬が亡くなった翌年の慶応4年、おりょうさんは龍馬の実家を訪れた後、芸西にやって来ました。ここでゆっくり心を癒したんですね。

一年間一緒に暮らしたのが、菅野覚兵衛のお兄さんの娘にあたる仲子さんです。
その仲子さんが後に取材を受け、「土佐にいたおりょうさん」という記事が昭和16年の高知新聞に掲載されています。
それがこの新聞です。新聞社にも残っていないかも、と聞いたのでとても貴重なものですね。

資料を見ていくと、おりょうさんの人生だけでなく、海援隊や芸西出身の人物たちとのつながりも見えてきます。一つひとつ話し始めると、ここだけでも20分くらいかかります(笑)

資料に書かれた文字を追うだけでは、なかなか分からない人物同士の関係。けれど堀田さんの解説を聞いていると、150年以上前の出来事が一本の線につながっていきます。
取材中にも思わず「聞かないと、読んでいるだけでは分からないですね」という声が漏れました。

芸西村から地球の歴史へ。「芸西メランジュ」と石の展示

今度は雰囲気がガラリと変わります。並んでいるのは、さまざまな「石」。実は芸西村には、日本の地質学の歴史を語るうえで興味深い場所があります。
それが、西分漁港周辺で見ることができる「芸西メランジュ」です。

堀田さん:西分漁港にあるメランジュは、日本の地質学の歴史にも非常に重要な意味を持つ場所なんです。
ここには枕状溶岩(まくらじょうようがん)や、放散虫(ほうさんちゅう)が堆積してできた岩石、火山灰からできた凝灰岩(ぎょうかいがん)など、実にさまざまな岩石が混在しています。

それを高知大学の先生が調査・研究していく中で、プレートの沈み込みに伴って海底にあった岩石が陸側へくっついていく「付加体(ふかたい)」の解明につながっていったんです。

例えば、この緑色の枕状溶岩。もともとは赤道付近にあったものが、プレートの移動によって長い年月をかけてここまでやって来たと考えられています。

1年に換算するとわずか数センチという、本当に少しずつの動きです。
小さな変化に思えますが、それが何千万年という時間積み重なることで、はるか遠くの海底にあった岩石が、ここ芸西村まで運ばれてきたことになります。さらに、このプレートが沈み込み、たまったひずみが一気に跳ね上がる現象こそが、私たちが暮らす高知とも深い関わりがある地震の発生する仕組みにつながっているんですよ。

堀田さんの説明を聞きながら石を眺めていると、それまで何気なく見ていた「石」が、地球の壮大な時間を記録したものに見えてきます。

単なる「石のコレクション」ではなく、その一つひとつが、かつて海底にあった場所や地球の動きを知るための手がかり。さらに展示にはマンガンなどの資料もあり、堀田さんの話は、近年注目されている海底のレアアースにまで広がっていきます。

堀田さん:なかなかアカデミックやろ(笑)。

障子紙と竹で作った?芸西村の昔のハウス栽培

続いて目に入ったのは、今のビニールハウスとはずいぶん姿の違う、昔のハウス栽培の展示です。
現在もナスやピーマンなどの施設園芸が盛んな芸西村。その農業の歴史をたどることができるのも、この資料館の魅力です。

堀田さん:昔は孟宗竹を割って、ドーム型の骨組みを作っていました。

それに使っていたのが障子です。障子紙に油を塗って水をはじくようにして、その上から「こも」という、わらで編んだ毛布のようなものをかぶせて保温していました。
昭和30年代くらいには、こうした促成栽培をやっていたんです。

バックヤードには、当時ハウスで使われていた障子の現物も残されていますよ。こういう現物があるから、説明するより見てもらった方が分かるでしょう。

紙と竹を使ったハウスから、ビニール、そして現在の施設園芸へ。今では当たり前に見える芸西村のハウス栽培にも、先人たちの試行錯誤がありました。

当時栽培された作物は琴ヶ浜へ運び、沖に来た船へ小さな船で積み替えて県外へ出荷していたといいます。資料館に残された一枚の障子から、芸西村の農業の歩みが見えてきます。

「これ、何に使うもの?」昭和の暮らしをのぞいてみる

常設展示には、昔の暮らしで使われていた道具もずらり。

今の生活ではほとんど目にすることがなくなったものも多く、「これは何だろう?」と立ち止まってしまいます。
その一つが「ハエ取り瓶」。ガラスでできた不思議な形の道具です。

堀田さん:中にハエが好きそうなものを置いておくんです。ハエが入って、逃げようとして上へ行くと滑って水の中に落ちる。そういう仕組みです。

明治19年の新聞にも、ガラス製のハエ取り瓶の広告が載っているんですよ。朝ドラのセットの中にも、ハエ取り瓶を見つけました。日本で初めての女性弁護士のあのドラマやね(笑)

古い道具をただ並べるだけでなく、「いつ頃からあったのか」「どうやって使われていたのか」まで調べていく堀田さん。そんな視点で館内を歩いていると、昔の人の暮らしの知恵が少しずつ見えてきます。

堀田さんが特に見てもらいたいものは?

堀田さん:ひとつというより、全部かな。
皿鉢料理と一緒で、その皿に盛ったもの自体がこだわりなんです。全てがメイン。

「ようこんなに残したな」ということも知ってもらいたいし、見て懐かしがってもらいたい。「昔はこうやったな」という話を、今度は自分の口で子どもたちに伝えてもらいたいですね。

海とともに暮らした芸西村。昔の地引網

芸西村といえば、目の前に広がる太平洋。資料館には、かつて村で行われていた漁の様子も残されています。
展示されている一枚の写真には、大勢で地引網を引き、たくさんの魚が揚がった当時の光景が写っています。

堀田さん:今はもう網元がなくなって、地引網は やっていないんですが。これは教育委員会がお願いして、子どもたちに見てもらった時の最後の地引網の写真ですね。たぶんサバがどっさり獲れています。

この写真の面白いところは、子どもたちが全然喜んでないところ(笑)。

写真を見ると、確かに大量の魚を前にした子どもたちの表情は、喜んでいるというより少し圧倒されているようにも見えます。
さらに堀田さんの話は、漁業から農業へつながっていきます。

かつては魚を肥料として利用し、サトウキビ栽培にも生かしていたのだそう。温暖な気候、海から得られる資源、そして新しいことに挑戦する村の人たち。
一見別々に見える「漁」と「農」が、芸西村の暮らしの中では密接につながっていました。

実は一番ディープ?「バックヤード」が面白い

そして今回、最後に案内してもらったのがバックヤード。
普通なら「収蔵庫」と聞くと、きれいに整理された棚を想像するかもしれません。ところが芸西村文化資料館のバックヤードは、少し違います。

昔の農具、障子、銭箱、真空管、SPレコード、ステレオ……。
棚をのぞくたびに、「これは何ですか?」と聞きたくなるものが次々に現れます。

堀田さん:私が来た当時は、本当に物が雑多にぎっしりあって、中に進むまでに3か月かかったんですよ。

片付けながら少しずつ入ってきて、そのたびに面白いものが見つかったら表へ出して、企画展をやる。
「片付けては企画展、片付けては企画展」みたいな感じやね(笑)

バックヤードから見つかった資料を調べ、その背景をひもとき、企画展としてもう一度“表舞台”へ。資料館では、そんな発見が今も続いています。

古い道具も、意味を知ると面白いですね

堀田さん:そう。意味があってここにあるので、その意味は何か、ということですね。

例えば、一見用途の分からない農具も、使い方を聞けば、そこには作業を少しでも楽にしようとした昔の人の知恵があるんです。

さらにバックヤードには、昔のハウスで実際に使われていた障子や、天保5年の銭箱、約1,800枚のSPレコードなども。「古いもの」で終わらせず、誰が、いつ、何のために使っていたのかを調べていく。そうすると、一つの道具から芸西村の人や産業、歴史へと話がどんどん広がっていきます。まるで宝探しのような場所でした。

【取材後記】
展示されているものは、かつて芸西村で暮らしていた方たちにとって、ごく身近なものだったのかもしれません。
けれど、それらが残され、背景にある物語と一緒に伝えられることで、村の歴史が立体的に見えてきます。

「見て懐かしがってもらって、それを子どもたちに伝えてもらいたい」
そんな堀田さんの言葉の通り、ここは昔を知る人には懐かしく、知らない世代には新鮮な発見がある場所です。

何気なく置かれた一つの資料から、思いがけない芸西村の物語が始まるかもしれません。
ぜひ一度、じっくり館内を巡ってみてください。