活躍する住民
スケートボードを通して、芸西村の子どもたちに輝く未来をー。プロスケーター・茄子農家 春田真佑さん
芸西村で育ち、幼い頃からスケートボードに夢中だった春田真佑さん。
高校卒業後は大阪へ渡り、スケートボードの技術だけでなく、ファッションや音楽、映像など、
自分らしい表現を追い求めてきました。その活動が認められ、自身の名前を冠したプロモデルも発表。
現在は芸西村で家業の茄子栽培に携わりながら、プロスケーターとして活動を続けています。
そんな春田さんが今、実現したいと考えているのが、芸西村に新しいスケートパークをつくること。
「芸西村からプロスケーターが生まれてほしい」。
自分が夢中になってきたスケートボードを、次の世代へ。
これまでの歩みと、子どもたちの未来にかける想いを伺いました。

スケートボードに魅了された少年時代
できなかった技が、できるようになる。その楽しさに夢中だった
小学校の時に、先輩たちが滑っているのを見て、かっこいいなと思ったのがスケートを始めたきっかけです。
最初は家の前の道路で滑っていました。当時は今みたいにYouTubeもなかったので、アメリカのスケートビデオを見て、スロー再生しながら「どうやってやってるんだろう」って、みんなで研究していましたね。
ジャンプすることを「オーリー」って言うんですけど、それができるようになったら、今度は木を置いて飛んでみたり。できなかったことができるようになる。その達成感が楽しかったんです。上達するにつれて、もっと上手くなりたいという気持ちも強くなっていきました。
中学校では友達が部活をしている間も、年上の先輩たちと一緒に滑っていました。高知県内では大会も少なかったので、県外の大会に連れて行ってもらったこともあります。
怖いと思うことは、もちろんあります。でも、それ以上に「成功させたい」という気持ちが勝つんです。上手い人と一緒に滑っていると、悔しいと思うこともあるし、負けたくないとも思う。でも、続けてきた一番の理由は、やっぱり楽しかったからだと思います。

もう一度、本気で向き合いたい。18歳で大阪へ
高校生になると周りの環境が変わって、一時期スケートボードから少し離れたことがあったんです。それまでは毎日のように滑っていたのが、月に1、2回くらいになって。
でも、その間もずっと滑り続けていた人たちは、どんどん上手くなっていたんですよ。久しぶりに一緒に滑った
時に、それがすごく悔しくて。
自分にはスケートボードという、一つの武器のようなものがあったのに、それをおろそかにしてしまっていた。
その時に、もう一回ちゃんと向き合おうと思ったんです。ちょうど高校を卒業する18歳くらいの頃です。
もともとファッションや音楽にも興味があって、服屋で働きたいという気持ちもありました。大阪には姉もいたので、服屋で働きながら、もう一度スケートボードを本気でやってみようと思いました。
大阪では、いろんなスケートスポットに行きました。
スケートボードの世界って、一緒に滑ることでコミュニケーションが生まれるんです。最初は挨拶するだけだった人とも、お互いの滑りを見て認め合ううちに、自然と仲間になっていく。そうやって少しずつ、いろんなコミュニティにつながっていきました。
スケートボードは、技だけじゃない。自分を表現するもの
そこで出会ったのが、ストリートスケートの世界です。
大会で順位を競うだけではなく、街中のさまざまな場所を舞台に、自分らしい滑りを写真や映像で表現する。その自由さやかっこよさに、どんどん惹かれていったんです。
スケートボードって、1位、2位という順位だけで評価される世界じゃないんですよ。どんな場所で、どんな技を、どんなふうに見せるのか。それを写真や映像にして、一つの作品にしていく。そこにすごく魅力を感じました。
撮影できそうな場所を自分で探して、写真を撮って、どういう滑りができるかイメージする。実際に挑戦して、
カメラマンに撮影してもらうんです。たった2、3秒の映像を撮るために、何度も挑戦することもあります。
そうやって撮りためた映像が、3、4分の作品になる。仕事をしながらなので、一つの作品を完成させるまでに
2、3年かかることもありました。
スケートボードには、技術だけじゃなく、ファッションや音楽も大事なんです。例えば写真を撮る時も、背景とのバランスを考えて服の色を選んだりします。映像にどんな音楽を合わせるかによっても、見え方は変わってくる。スケートボードの技術、ファッション、音楽。その全部が合わさって、一人のスケーターのスタイルになる。僕はそういう世界が好きなんです。
大阪ではスケートカルチャーとつながりの深い「Supreme」でも働いていました。当時の大阪はスケートシーンが
すごく盛り上がっていて、店にもスケーターがたくさん来ていましたね。
ついに、プロスケーターに
帰郷の決断。でもその前に叶えることがある
スケートボードの世界で「プロ」の定義って、少し難しいんです。一般的には、自分の名前が入ったプロモデルを出すことが、一つの証明になります。
映像作品をつくったり、雑誌に掲載されたり、滑りやスタイルを発信することで、ブランドや業界関係者に認めて
もらうことがスポンサーにつながるきっかけになるんです。僕自身もそういう活動を積み重ねていきました。

画像:春田さんのビデオパート(集大成)が収録されている映像作品と、特集されている写真が掲載されている専門誌
実はその頃、両親から芸西村に帰ってきて、茄子農家を継いでほしいという話が出てきたんです。
でも、大阪で積み重ねてきたものを、途中で手放すのは嫌だなと思って。だから、プロモデルを出してから
帰ろうと決めました。帰郷するまでの約1年間で実現する!と。
その間に雑誌の特集や映像作品などの活動を評価してもらい、ついに、ウィール(車輪)のブランド「STRUSH WHEELS」から、自分のプロモデルを出してもらうことになったんです。

画像:春田さんのプロモデルウィール
念願だった「プロモデルを出す」ということが叶い、芸西村に帰る決断ができました。
プロスケーターとして、そして茄子農家として
芸西村に帰ってきたのは2018年、32歳の時です。今は家族と一緒に茄子を栽培しています。
農業は、まだまだ勉強中ですね。ゆくゆくはこうしたい、という考えはありますが、まずはもっと経験を積まないといけないと思っています。 スケートボードでつながってきた人たちとの関係も、将来、農業で何か新しいことを始める時に活かせるんじゃないかと思っています。
芸西村に滑る場所がない・・・葛藤
芸西村に帰ってきた時は、スケートボードを続ける環境がなくて、かなり葛藤がありました。スポンサーとの関係も続いていたので、活動は続けなければいけない。でも、大阪にいた頃のように滑れる場所がない。
農業は朝早くから仕事があるので、生活のリズムも全然違います。どうしようかと思っていた時、地元の仲間たちが僕が戻ってきたことで、「またスケボーが盛り上がるんじゃないか」と喜んでくれたんです。
そこで、使っていなかった倉庫を利用して、みんなでスケートボードができる場所をつくり始めました。最初はランプ(斜面や曲面を使って滑るための設備)をつくって、少しずつ設備を増やしていって。そうしてこの場所ができたことで、芸西村でもスケートボードを続けられたんです。

「芸西村の子供たちが輝ける未来」を一緒につくりたい
あの頃の仲間の子どもたちが今、スケートボードに夢中に
今、この場所で、昔から一緒にスケートボードをしていた友達の子どもたちにも教えています。
僕らはもう40代になって、当時の仲間にも子どもがいるんです。親たちが滑っているのを見て、子どもたちも自然と始めるようになりました。今は10人くらいいますね。
まだ始めて1年くらいの子たちもいますけど、上達が早いんですよ。僕らが子どもの頃は、誰かにちゃんと教えて
もらえる環境なんてなかったけれど、今の子どもたちは、YouTubeで技を調べることもできるし、僕らも自分たちの経験を教えてあげられる。
単に技を教えるだけではなくて、どうやって自分のスタイルをつくっていくか、どうすればスケーターとして成長できるか。僕は実際に経験してきたことがあるので、そこまで伝えていけると思っています。
子どもたちには、すごく可能性を感じています。

芸西村に、子どもたちが自由に滑れるスケートパークを
今、僕が実現したいのは、芸西村に新しいスケートパークをつくることです。
子どもの頃は、スケートボードをする専用の場所がなかったので、いつも滑れる場所を探して練習していました。
スケートボードがオリンピック競技になり、スポーツとしての認知も広がっています。全国にもスケートパークが増えてきました。芸西村にも、子どもたちが安心して練習できる場所があればいいなと、ずっと思っていたんです。
今使っている倉庫は、あくまでプライベートな場所で広さにも限りがあるので、誰でも自由に来てもらえるわけではありません。でも、スケートボードを始めたい子どもは、これからもっと増えるかもしれない。だからこそ、みんなが使える場所が必要なんです。
最近は子どもたちが大会に出場するようになって、村の広報でも紹介してもらったり、活動を知ってもらえる機会が増えてきました。
村の方や村長さんにはスケートパークをつくりたい、という僕の想いを伝えたり、署名も集めています。まだ具体的な計画が決まったわけではありませんが、以前よりも声が届くようになってきたと感じています。
僕の中では、どんなスケートパークにしたいかというイメージも少しずつできています。
これから、もっと具体的に話が進んでいけばいいですね。
芸西村から、未来のプロスケーターを
僕にとって、スケートボードで輝くというのは、やっぱりプロスケーターになることです。芸西村からプロスケーターが生まれて、高知で有名になって、四国で有名になって、全国に広がっていく。そうなったら、すごく面白いじゃないですか。
今の子どもたちは、僕らが始めた頃よりもずっと早い年齢からスケートボードに触れていて、環境も変わって
います。だから、もっと大きな可能性があると思うんです。
僕が経験してきたこと、自分にはできなかったことも含めて、いろいろ伝えていきたい。
スケートボードって、学生の時だけで終わるものでもないんですよ。大人になっても続けられるし、年齢を重ねても自分なりの表現ができる。
僕自身も、これからずっとスケートボードに関わっていきたいと思っています。
そして、今度は子どもたちに未来を託している部分もありますね。


画像:入口のドアに描かれたアートにも芸西村のマークが
スケートボードを通して、芸西村に新しい魅力を
大阪から帰ってくるまでは、芸西村のことを特別に意識していたわけではなかったんです。でも、帰ってきて改めて暮らしてみると、すごくいい環境だなと思いました。海も山も近くて、自然があって、食べ物もおいしい。
そこにスケートボードの文化が加わったら、もっと面白い場所になると思うんです。僕の友達も全国から遊びに来てくれるんですけど、みんな芸西村の環境をすごく気に入ってくれます。
スケートボードができて、自然も楽しめて、おいしいものもある。そういう場所って、魅力的じゃないですか。僕もこれからずっと芸西村で暮らしていくと思います。だから、そろそろ自分も村に貢献できるようなことをしていきたいですね。
スケートパークができれば、芸西村の子どもたちだけでなく、村外からもスケーターが集まる場所になるかもしれません。そして、そこで育った子どもたちが、いつか全国で活躍するようになったらうれしい。
芸西村から、そんな未来が生まれたらいいなと思っています。

【取材後記】
倉庫に足を踏み入れると、壁一面に並ぶスケートボードのデッキ。音楽やファッション、デザインや空間の隅々に
まで春田さんや仲間のみなさんのこだわりが感じられました。技だけでなく、ファッションや音楽、空間全てを世界観として魅せるというスケートボードの魅力が伝わってきました。
「芸西村からプロスケーターを」。
長年積み重ねてきた経験を芸西村の子どもたちに伝え、夢への第一歩となるスケートパークの実現に向かう春田さんの挑戦を、心から応援したくなるインタビューでした。
プロスケーター×ナス農家 春田さんの芸西村ライフ⇒ https://www.youtube.com/watch?v=Bn7lgJdFUVg